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音楽、写真、地域の歴史|万年初心者のモノローグ

戦争を知らない私の戦争

8月の空にトンボが飛んでいた。戦争で故郷に帰れなかった人がたくさんいる…
 
8月に入るとメディアでは戦争に関する報道が多くなります。原爆投下から今日の終戦の日までは、式典中継やドキュメンタリーが組まれ、嫌でも日本が戦争したことを思い起こさせてくれます。
私は戦後生まれで、進駐軍がいなくなった後に生まれていますから戦争体験はありませんし、その影響もほとんど知らずに育ちました。あったのは両親までです。
本当は飛行機乗りになりたかったと言っていた父は空ではなく、地を這う装甲列車の部隊にいたらしい。中国で敵機に銃撃されたり、地雷で親指の先を失ったりしたが復員して国鉄の運転士になった。
 
母親は二十歳を前に女子挺身隊に入れられ、野田から松戸へ。軍需工場で経理を担当して算盤をはじいていた。中小企業だったし事務だったから食糧事情とノミ、虱以外は辛酸を舐めるような状況からは遠い。ただし、二度もアメリカの戦闘機に空襲され、一度は足元まで銃弾が飛んできた。父も母も仲よく機銃掃射経験者。つまり、戦争末期は戦場も内地も状況は同じだった。
 
母親から聞いた体験は、要約すると上のような内容に圧縮できてしまう。父親のそれはまったく書いたとおりで、それ以外の話は話さなかったか私が覚えていないか。どちらも戦争体験としては深刻なものではなく、どちらかと言えば軽微な体験だと言える部類だろう。本人たちは生死を分けた怖ろしい経験だったのだろうが、TVで放送されるようなすごい体験ではないのだ。なにしろ、生きて帰ってきている。それも命からがらというわけでもないのだ。
 
戦闘や復員については父からは何も聞いていない。積極的に話す人ではなかった。母親の場合は9月になってから電車に乗って工場から野田に戻った。戻った途端にジープの米兵を見て恐怖を覚えたというが、まあ、それだけと言えばそれだけだ。
私が子供の頃、どういうわけか子供向けの雑誌は戦争物が多く、兵器や戦争の知識を仕入れるのに苦労はしなかった。PTAなどが苦言を呈していたが、だからと言ってゼロ戦戦艦大和路線が変更されることはなかった。小松崎茂の箱絵のプラモデルを買い、戦闘機のスペックを丸暗記するような少年時代が下地になったのか、両親より戦争についての知識は豊富だった(笑)。
 
が、その程度の知識だった。母親の体験を文章化した際に本当の知識がないということに気が付いた。兵器について知っているようで知らないし、軍隊そのものについてはほぼ無知。実体験がないということはどうしようもないことだった。
 
ウクライナガザ地区などの映像を見ていると「平和が一番だよ」と言っていた母の言葉が甦える。かつてはあれを帝国日本がアジアや太平洋諸国に対してやったのだ。そしてやり返された。世界史のどこででもそのようなことの繰り返し。戦争は犯罪で戦争を始める人は犯罪人と思うが、逮捕される訳ではない。そして誰も歴史から学ばない。学ばないのだから、また繰り返されるだろう。
新しい戦前という言葉を耳にすることがあるが、新しいのではなく、現在まで戦前とはシームレスに続いているのではないかという気さえする。
今、お盆だから、亡き両親も帰ってきていることだろう。こんな文章を書いている歳をとった息子を見てどう思うだろうか。多分、「相変わらず馬鹿だねえ、お前は」と言うだろうなあ。
Nikon Z50II / NIKKOR Z DX 12-28mm f3.5-5.6 PZ VR

柏歴史クラブ パネル展「柏に残る戦争遺跡」を見て

 
今日は柏市内で始まった柏歴史クラブによるパネル展「柏に残る戦争遺跡」を見学に行ってきました。
現在は商業都市として賑わう柏市ですが、戦時中は多くの軍事施設、関係施設があり、「軍郷」と呼ばれる地域のひとつでした。
 
柏に置かれたのは、陸軍の柏飛行場をはじめ、航空廠立川支廠柏分廠、第4航空教育隊、高射砲第2連隊、射撃訓練場、柏陸軍病院憲兵隊柏分遣隊、日立製作所柏工場、日本光学柏工場が主なものです。特に、柏飛行場は、松戸飛行場、戦争末期に作られた藤ヶ谷飛行場と並び東京周辺の防空を担う重要な施設でした。
 
 
柏飛行場では、戦争末期にドイツのロケット戦闘機Me163を原形とした「秋水」の開発のため、主に訓練用の木製グライダー(秋草)を用いた訓練が行われました。また、爆発性の劇物だった燃料のために、飛行場付近にはコンクリート製の燃料庫が設置されました(一部は現存)。
 
このように軍郷だった80年前の柏を辿れるように、柏歴史クラブによる調査、研究の結果をパネルや模型、ジオラマが展示されていました。アメリカに残る資料も掘り起こし、それらも交えているのも特色です。
今回は、特に、3Dモデルデータを元に3Dプリンタで出力した秋水のエンジン模型は珍しく初めて目にすることができました。
戦後80年と言われる今年、身近な街がかつては軍事色が濃い場所であったことを改めて知るよい機会となりました。
 
▍戦後80年パネル展「柏に残る戦争遺跡~柏歴史クラブから~」主催:柏歴史クラブ、後援:柏市教育委員会.2025/8/13(水)~8/16(土)10:00-17:00(最終日は15:00まで)柏市民ギャラリー(柏市柏1丁目、パレット柏3階)

思い出の汽車たち 15

室蘭本線D51を2枚ご紹介いたします。広々とした風景の中をまっすぐに延びる線路で最後の活躍を見せるD51たちです。

 

 
長大な石炭専用列車を牽くD51331が黒煙を噴き上げて力行してきました。
煙室扉に「団結」と大書された跡が見えますが、昔の労働組合が華々しかった頃の名残りです。

 

 
反対側からやって来るのはD51重連回送です。写真右端が見切れているので重連とは気付きにくいうえ、ブレていてナンバープレートがはっきりしませんが戦時形の1118号機と思われます。(次位の機番は不明)
当時の室蘭本線は、SLがまだまだ主役で走っていた最後の場所でした。
D51331号機は、昭和14年(1939)12月の日立製作所製。秋田、新津機関区等を経て昭和47年(1972)10月に岩見沢第1機関区に配置され北海道(耐寒)仕様等に改装を受けます。北海道での活躍は1年ほどで、昭和48年(1973)11月に同区で廃車となりました。
 
一方、D511118号機は、終戦1年前の昭和19年(1944)8月に日本車輛で製造された戦時形で、宇都宮、水戸機関区等で活躍しましたが、その間、2回にわたって戦時形装備の改装が施されます。
昭和38年(1963)9月に岩見沢機関区に異動、耐寒工事を受けて北海道での活躍を開始します。昭和43年(1968)10月に機関区分割により岩見沢第1機関区に配置換え、昭和51年(1976)3月に同区で廃車されました。
上の331号機のデータに基づけば、忘れてしまった撮影日は1973年で間違いなさそうです。大学3年生の夏休みを利用した渡道でした。
就職を控えてこんなことをしていてよかったのか(笑)。今では考えられないことかも知れません。就活なんて言葉もなかったな。
いずれにせよ、半世紀以上も前の出来事。彼らは皆走り去って、私もすでにリタイアから数年…
 
  • 機関車の履歴や番号判定については、いつものように機関車データベース(デゴイチよく走る!)他、諸氏のブログ等を参考にさせていただきました。

ピアノ・レッスン|52

今日も「危険な暑さ」の中をレッスンに出かけました。雨の合間を縫っての外出です。
結論を先に書きますと、今日は全部不可でした。練習はしたのですが、合格点には達していませんでした。もちろん、自分でも分かっていて、「貴婦人の乗馬」は土台無理だから諦めて、他の2曲に注力して何とかしのごうとしたのですが、結局、全滅しました(笑)。
 
挑戦した曲とその結果
ハノン:39番;ヘ長調ニ短調(1回目)【継続】
フラット一つだからと侮っていました。ミス多発で次回に持ち越しです。
 
チェルニー:8小節の練習曲;12番 (2回目)【継続】
追い込み練習でやっと通せるようになったレベルでしたので納得の持ち越しです。次は速度を上げないと。
 
ブルグミュラー:第25番「貴婦人の乗馬」(la chevaleresque)(4回目)【継続】
速度は少し上がり、最後まで通すことはできましたが、音が跳躍する箇所が鬼門です。まだ、指が動かないところが複数あり、あゝまたしても堂々の落馬!

全曲継続となりしょぼんと家路をたどる頃には雷鳴が聞こえ始めました。怪しい雲行きの下で考えるのは残された3週間ほどで3曲をどう仕上げるか。お盆もあるしどうなるかな。いや、どうしようかな。

お盆の準備を始めました

 
8月になりました。8月はなんと言ってもお盆の月です。もう遅いのかも知れませんが、お盆の準備に入りました。
まずは、墓参りに使う提灯を出してきて虫干しです。今はもっと小さく軽いものがスーパーでも売られていますが、これは亡父のオーダーメード。父親も気合を入れて作ったのだろうと思います。当初(かれこれ50年くらい前か)は本物のろうそくを使用。じきに乾電池式ろうそくに進化して現在に至っています。
この提灯を見ると、やはり当時のことが思い浮かびます。
 
 
子供の頃の8月はお盆の重圧がのしかかってくる憂鬱な月でした。何しろ1週間近くもあり準備を含めれば2週間はお盆の影響下にあるのです。大人は忙しそうにするし、見たこともない人が大勢やってくるしで子供には居場所がありません。
墓には歩いて、やがては自転車で行っていたのですが、大人に混ざって、迎えと送りで2回も行かねばなりません。
何がどうなっているのか分かりませんでしたが、両親や親戚たちは役割分担を心得ているらしく、花を生ける人、線香に火をつける人で忙しそうにしています。拝む順番も決まっているようですが子供には分かりませんでした。まあ、退屈でした。
 
さらに困ったのが、墓参りの後の宴会です。最初は和やかで子供の相手などもしてくれるのですが、佳境に入ると決まって喧嘩が始まるのです。この頃になると子供は隣室で大人しくしているのですが、突然、襖を破って人が転がり込んで来たりします。組んず解れつの喧嘩になってそれが父親だったりしました。
母が止めに入ったもののいつのまにか夫婦喧嘩に発展。皿が飛び交って畳の上は料理が散乱、酒もこぼれて足の踏み場もありません。いやあ、怖かったのなんのって。
 
まあ、今はそんなことは無くなりました。両親も既に亡く、親戚も櫛の葉が欠けるように少なくなりました。もう大掛かりな墓参や宴会はありません。したくてもできないのです。
 
 
思えば、当時のお盆は村社会がモデルで、それを引きずっていた世代の両親はそれに従ったまでだったのだろうと思います。私が子供の頃見たお盆の風景はムラ社会の残影でした。女性が万事整えなければならなかったし、手伝うそれなりの人数がいました。お寺も墓も近かったからご先祖様のお迎えも送りも簡単にできました。
でも、今は無理。事情が違い過ぎます。従って、墓仕舞いという次第になるのでしょう。
あの当時はまったく考えられないことでした。
 
Nikon Z50II / NIKKOR Z DX 16-50mm f/3.5-6.3 VR

特定健診を受診したけれど…

一昨日は、猛暑の中、特定健診を受診しました。人間ドックと1年おきに受診することにしているのですが、今年は諸般の都合で、また、特定健診にしました。朝食と昼食が禁食というあまりにも酷な時間設定でした。
 
ところが、2食分も禁食した割にはあっけなく終わってしまい、あれっと思いました。採血と身長・体重、腹囲測定と、任意だという心電図だけでした。いつの間にか簡略化されたようで、検査項目が任意になったり、なくなったりということらしいのです。
う~ん、プラン75が着々と進行しているのかと不安になります(笑)。
それはよく調べてみるとして、我が家の健診受診計画は見直さないといけないかな。
 
 
昨日は、カムチャッカからの津波をTVが一斉に報じました。
トカラ列島に注目していたら、まったくノーマークだった北方の地震津波。日本の東海岸全体に津波警報などが発令されました。また、北西太平洋にある天皇海山列に津波が反射して押し寄せてくるとの説明がありました。そんなのがあるのかと急いで地図帳を広げたけれどそれを載せたページがありません。地震国なのだから、地上だけでなく海面下の状況も重要だろうと思う。地図帳業界よ、これでいいのか。
 
と思いつつ、台風の動きも気になってきた今日は、植木を台風シフトに変更したり、忘れてかけていたお盆の申し込みをお寺にしたりと何かと忙しい日を送りました。
そうこうするうちに、7月ももう終わりです。